感想『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』今しか成立し得ない平成が生んだ怪物映画

毎年恒例の夏映画ですが、公開初日以来となる二度目の鑑賞をしてきました。二回観ても相変わらずとんでもない映画だなあというのが率直なところ。公開から1ヶ月近く経つのでもう散々色々な感想が流れていますが、個人的に思ったところを書き留めておきます。

以下ネタバレ含む感想です。

 

この作品は「平成ライダーとは何だったのか」というテーマに対する制作サイドからのある種開き直りのようなアンサーである。平成ライダーは世界観も設定もバラバラで凸凹、だけどそれこそが平成ライダーなんだ、という力強い宣言。この宣言をストーリーとしても演出としても縦横無尽に繰り広げるのがこの映画である。

平成ライダーを追いかけてきた人ならおそらく「何だこれ」「ふざけてるのか」と思ったこともあるはず。そんな経験を「お前らの平成って醜くないか」と問う常盤SOUGOに対するソウゴの「瞬間瞬間を必死に生きてきた」結果であるという答えで肯定する。これは公式によるひどい開き直りともとれるのだが、これまで平成ライダーを追いかけてきた身としてどうしようもなく感動してしまった。昨年冬公開の『平成ジェネレーションズFOREVER』が平成ライダーとの綺麗な思い出を呼び起こしたとすれば、今作は平成ライダーに抱いてきた必ずしも肯定的でない感情までも呼び起こし、「やっぱり俺って平成ライダー好きだわ」という感想に着地させる、とんでもない荒業をやってのけたのだ。

さらに今作には歴代平成ライダーだけでなく、ネット配信作品から仮面ライダーブレンやゴライダー、舞台作品から斬月カチドキアームズ、漫画版クウガ、バラエティ企画のGの登場、果てには元々無許可パロディの「仮面ノリダー」から木梨憲武が本人出演と予想外の方向から多数のゲストが参加したことも特徴である。これは平成ライダーが20作品という歴史を積み重ねる中でコンテンツとして拡大してきた集大成といえる。各方面へのコンテンツ拡大というある意味での節操のなさに対し、1つの映画作品にまとめて出演させるという節操のなさで返す、無許可パロディまで公式に包摂する、こんなコンテンツが他にあるだろうか。(というか、あってたまるか。)これによってウォズの「平成ライダーの歴史は豊潤だ」というセリフはこれ以上ない説得力をもち、平成ライダーを総括するというこの映画の本懐をとげるのである。そして最後の歴代平成ライダーによるライダーキックを受けたバールクスが掲げる「平成」の二文字。元号発表のパロディのような、ギャグにしか見えない絵面を観て、私は笑いながら涙を流す。ここに平成は終わったのである。(いや、平成はすでに終わっている。)

上述したようなテーマが注目されがちな今作だが、ソウゴによって動かされるゲイツとウォズという『ジオウ』本編につながる要素もしっかり含まれている点もポイントが高い。1年かけて常磐ソウゴを演じてきた奥野くんの演技も随分と逞しくなったなあ…と感動である。各ライダーの最強フォームへの変身をベルトを中心に映していく構図も大変印象深い。

そしてDA PUMPによる主題歌の「P.A.R.T.Y.〜ユニバース・フェスティバル〜」である。正直初めて聞いた時は「なんでこの曲なんだろう…?」という感想だったのだが映画を観終わってからは「この曲以外ありえねえな!!」という気持ちになった。凄まじい中毒性である。未だにパパパーリィー!が耳から離れない始末である。

10年前の『ディケイド』が平成ライダーをカタログ化したとすれば、今作は平成ライダーを理念として総括することに成功している。この平成から令和へと移り変わる時代の節目に奇しくも20作目の節目を迎えた平成ライダーは時代までも味方につけシリーズ自体を予想の斜め上をいく方向でまとめ上げた。元号を我が物顔で利用する仮面ライダーシリーズの図太さには驚くが、とにもかくにも私は平成ライダーの総括作品としてこの作品が大好きだ。

テレビ本編も残すところあと1話。『ジオウ』の、「平成ライダー」の、そして平成の最後をしかと見届けたい。(いや、平成はすでに終わっている。)

感想『舞台 仮面ライダー斬月 -鎧武外伝-』見事な再構成と呉島貴虎の物語

3/31に大千秋楽を迎えた『舞台 仮面ライダー斬月 -鎧武外伝-』、私もライブビューイングで観劇してきました。せっかく京都在住なので生で観たかったとは思いますが素晴らしい作品でした。というわけで、感想を残しておこうと思います。
以下、今後DVDやBlu-rayで観る予定の方はネタバレ注意です。

 

 

 

 

 

この作品を簡単にまとめると「『鎧武』本編の再構成+呉島貴虎の前日譚&後日談」といったところ。
『鎧武』本編の再構成部分として、地下世界でのチーム同士の抗争が描かれる。チームのリーダーは紘汰・戒斗・城乃内を、傭兵は凰蓮をそれぞれかなり意識したキャラクターになっており、(紘汰にあたるアイム役の萩谷慧悟は声が佐野岳そっくり!)変身するアーマードライダーも本編のそれに対応する。今回は舞台ということもあってか、抗争の内容ははっきりと殺し合いという本編よりも過激になってはいるが、おおよその展開は本編をなぞるような形のダイジェスト版に近い。さらに、抗争しているのは「子供」で支配層である「大人」がそれを見ているという子供対大人という構造は舞台版にも引き継がれている。しかし、この「子供」に向き合う貴虎の目線は本編後のものであり、「本編後の貴虎が見る『鎧武』」とも言え、貴虎の変化がみてとれるというだけでもグッとくるものがある。本編序盤のビートライダーズを「クズ」と言い捨てる貴虎とは目の向け方が違う、それを描いてくれただけでも観に来た甲斐があったと思わせてくれる。

「呉島貴虎の前日譚&後日談」としては、貴虎の過去の親友・鎮宮雅仁との関係が描かれる。雅仁は沢芽市に来る前の貴虎と思想を共有した協力者でありながら、実験の失敗に伴いオーバーロードになった存在である。雅仁との戦いを通して貴虎は過去と向き合い未来へ進み、アイム達に希望を託して去っていく。この選択は本編の経験がある貴虎であるからこそのものである。そして何よりカチドキロックシードをアイムに憑依した紘汰から入手するというのがアツい。本編の「変身だよ。」を踏まえた2人のやり取りは涙無しには観れない。紘汰の「変身できたんだな…」という言葉を受けて雅仁に立ち向かう貴虎の姿が見れる。地球を去った紘汰が残したものが受け継がれていると改めて描出してくれたのだ。こんなに嬉しいことがあるだろうか。

 

オマージュ盛りだくさんの演出で本編を追体験しながら、貴虎の「変身」を描いた本作は『鎧武』という作品の続編として、貴虎の物語として、この上なく完成されている。加えて、舞台ならではの生身アクションの迫力、プロジェクションマッピングを駆使した変身演出などなど平成の終わりに『仮面ライダー』の新しい可能性を提示してくれた作品である。

感想『ドラゴンボール超 ブロリー』 スクリーンからにじみでるアニメーターの本気

ようやく新年初投稿です。今回は公開からまあまあ経ちましたが先日バイト終わりにふらっと観に行った『ドラゴンボール超 ブロリー』の感想です。他の方の感想はちらほら目にしていたんですがそれでもバトルシーンの作画には圧倒されましたね… 観終わってしばらくは「すごかった」以外の感想が出てきませんでした。語彙力の敗北。
以下ネタバレ含む感想です。(この作品はネタバレどうこうはあんまり関係ないような気もしますが)

 

 

 

まず私の『ドラゴンボール』に関する知識は、原作と『GT』までのアニメはだいたい分かる、そのころまでの映画作品も小学生の時にだいたい観たことがある、だけど『超』はほぼ知らない、という感じで、登場人物のバックグラウンドなんかはおおよそ分かるし、ブロリーが初登場した『燃え尽きろ!!熱戦・烈戦・超激戦』も観ていたためブロリーの当時の設定も知っているが、スーパーサイヤ人ゴッドまわりの設定等は分からないという状態。この状態で観て、まず序盤のドラマパートで悟空・ベジータブロリーの出自が『熱戦・烈戦・超激戦』よりも丁寧に描かれているように感じて好印象だった。(ただし当時とはブロリーの設定が変わっているのでそういうのがダメな人は受け付けないかもしれない。)

このドラマパートが終わればあとはもうろくにセリフらしいセリフもないバトルの始まりである。そしてこのバトルシーンがそれはもう圧倒的なのだ。顔のアップや引きの画を巧みに使い分け、スピーディにキャラクターがスクリーン上を動き回る。めちゃくちゃ動く。なんというか東映アニメーションの本気を見せられた気がする。もうこのバトルシーンだけで白飯が食える。ただ戦っているだけなのに飽きないのは、先述のアップと引きの使い分けや、3人のパワーアップを段階ごとに散りばめたことによるものだろう。この辺は『ドラゴンボール』という息の長いアニメ作品を作り続けてきた東映の経験値やノウハウに裏打ちされた魅せ方のテクニックといっていい。

そして終盤、このままでは勝てないと感じた悟空がベジータフュージョンで対抗することを提案する。「恥ずかしい動きだ」といって拒むベジータの姿には謎の安心感のようなものを覚える。初回は失敗してベクウになる。これらのお約束を経てフュージョン成功、ゴジータの登場である。このゴジータも人気の高いキャラクターであるが、元々はブロリー同様映画オリジナルで、『GT』以来21年ぶりの登場とのこと。映画オリジナルキャラクターの中でも人気が高いゴジータブロリーの共演が実現するとなるとさすがにテンションが上がらざるを得ない。「オラ、ワクワクすっぞ!」と言いたくなる。そしてまたひたすら高密度なバトルを経て(ソウルパニッシャーを使ってくれたのも嬉しい。)、悟空とブロリーの間に友情が芽生えることを期待させるような描写を挟んで映画は終了する。もうこのころにはバトルシーンにおされて序盤の記憶が飛びかけている。「そういやパラガスとかいうやついたな」っていうくらいに。
エンドロールには見たことのあるアニメーターの名前も散見されたが、とにかくこんなアニメ作品を世に送り出してくれたことに感謝したくなる。大迫力のバトルシーンを堪能するためにも観るならぜひ映画館で観てほしい。過去の設定なんか大して知らなくても、ただただ映像が殴りつけてくるだけなので問題ありません。

しかし、ゴジータ21年ぶりの登場と書いたけど21年って私の人生とほぼ同じ長さだし『ドラゴンボール』というコンテンツの巨大さ・息の長さを感じる…『超』も追いかけてみようかなぁ…

2018年を雑に振り返る

晦日ということで表題通り、2018年を雑に振り返ってみます。

 

1月

バイトした。

テストで単位がお亡くなりになった。合掌。

2月

バイトした。

『ブレイブ&スナイプ』、『パラドクスwithポッピー』公開。

3月

金沢へいった。
バイトした。

『ゲンムVSレーザー』公開。

4月

CSMカイザギアが届く。
バイトした。

5月

自分史上最もバイトした。
仮面ライダーアマゾンズ 最後ノ審判』公開。

6月

バイトした。

1番酒を飲む機会が多かった。

7月

バイトした。

CSMオーズドライバーが届く。

テストで単位がお亡くなりになった。合掌。

8月

『ルパパト en film/ビルド Be The One』公開。(『en film』がめちゃくちゃよかったため、この辺から『ルパパト』にハマる。)

映画村での「ビルドキャストトークショー」へ行った。

実家に帰省、自堕落な生活を送り5kg太る。DXビルドドライバーが巻けなくなる非常事態。

9月

鎌倉に行く。

金欠の予兆。

人生初のダイエット。再びDXビルドドライバーが巻けるようになる。

10月

バイトした。

HUGっと!プリキュアふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ』公開。

11月

『オールスターズメモリーズ』舞台挨拶上映。目の前で「デュアルオーロラウェーブ」が聞けて感動。

年収の関係でバイトもそんなにできない。

金欠。

12月

バイトした。

金欠。

ブログを開設。

『平成ジェネレーションズFOREVER』公開。

感想はこちらの記事に書きました。↓

 

tsuki555y.hatenablog.com

 

こうして見てみるとバイトばっかりしていますね。これでいいのか俺の学生生活。そのくせ金欠とはどういうことなのか。あまりにバイトばかりだったので観に行ったライダー・プリキュア映画の公開とCSMの受け取りを記入する始末。2019年はもっと中身のある年にしたいですね。あと単位。

それでは良いお年を。

 

15年振りに『ふたりはプリキュア』を観た感想

今年は『プリキュア』シリーズ15周年のアニバーサリーイヤーということで、初代プリキュアであるキュアブラックキュアホワイトも『HUGっと!プリキュア』本編にゲスト出演したり、10月に公開された映画ではタイトルに『ふたりはプリキュア』が冠されたりと色々なところでフィーチャーされました。私個人としては『ふたりはプリキュア』が放送されていた当時、妹と一緒に観ていて、そのまま『ハートキャッチプリキュア!』くらいまではまあまあ熱心に観ていました。その後しばらく離れていたのですが、最近また『プリキュア』を追いはじめたので、「この機会に復習するか」という感じでリアルタイムで観ていた以来15年振りに『ふたりはプリキュア』を観ました。というわけで、放送から15年経った現在、『ふたりはプリキュア』を観た感想を書いていきたいと思います。

 

ふたりはプリキュア』における「ふたり」

やはり初代の特徴としては2人で1年間戦い抜いたことが挙げられる。多人数編成、あるいは追加戦士の登場が多くなった現在観るとかえってこの点が新鮮に感じられる。プリキュアにならなければただのクラスメイトとして終わっていたであろう、全くタイプの違うなぎさとほのかが親友に至るまでの描き方もとても丁寧。当初はお互いを名字で呼び合う状態、特になぎさは真面目で上品な優等生タイプのほのかに対して距離を感じている中、かの有名な8話での喧嘩を通してお互いの本心を伝え、下の名前で呼び合い、友達と呼べる関係になるという流れが自然に描かれていた。そんな中、2人の物語として1つのクライマックスを迎えるのが囚われたホワイトをブラックが救出しに行く42話である。力の入った戦闘シーンも相まって「大切な人を大事に思う自分の気持ちを大事にする」という思いのもと戦うブラックの姿、ホワイト救出後の共闘が劇的な回である。しかし、この42話が劇的な回として成立するにはそれまでの日常がなにより不可欠だ。先生の結婚式に行ったり、ロミオとジュリエットを演じたりと、積み上げてきた日常があるからこそ、2人の関係に説得力が生まれ、2人が危機を乗りこえる姿が感動的に映る。

「日常を守る」というテーマ

私は「日常を守る」というのが『プリキュア』シリーズに共通するテーマとしてあり、日常を積み重ねていくことが『プリキュア』の最大の魅力だと考えている。その「日常を守る」ことが『ふたりはプリキュア』にはよく表れており、「普通の女の子でありたい」というようなセリフが繰り返し登場する。また、今年10月に公開された『オールスターズメモリーズ』でも「プリキュアって言ったって普通の中学生の女の子だよ」というなぎさのセリフがある。みんなの日常を脅かす敵に対して、それを守るのがプリキュアなのであり、あくまで日常が前提として存在している。1作目だけあって、そんなシリーズのテーマがよく表れている。やはり『プリキュア』には日常が何より大切だ。

改めて観てみると、前述の「日常を守る」というテーマや、キリヤという敵から味方側になるいわゆる「光落ち」キャラの存在、ガチガチの肉弾戦、プリキュア同士の絆と『プリキュア』シリーズの特徴がわかりやすく描かれている。『プリキュア』に限らずシリーズ1作目を過剰に持ち上げる「初代至上主義」的なものは好きではないのだが、やはり長く続くシリーズの最初の作品というだけあって偉大な作品だった。時間の経過とともに作中のみならず作品外でも「伝説の戦士」になった、そんな気がする。

 

『キラキラ☆プリキュアアラモード』 「大好き」が重なる時間の尊さ

現行作の『ハグプリ』もクライマックスというこのタイミングなのだが、ふと「『プリアラ』って素敵な作品だったなあ」と思ったので書くことにした。

 

プリアラ』は「大好き」という気持ちをテーマにした作品だった。『プリアラ』の魅力は?と聞かれたら、アニマル×スイーツをモチーフにした可愛いキャラデザ、後期エンディング曲の妙な中毒性、エピソードで言えばゆかりの弱さとあきらの優しさがみえる25話、いちかと母親の関係性を描いた31話、キュアワッフルが登場し、活躍する39,40話など沢山思い浮かぶが、やはりこの作品の最大の魅力はこのテーマをしっかり描いていたところだと思うのである。『プリアラ』では、いわゆる最後のお当番回でそれぞれが自分の道を見つけ、最終話では最終決戦から数年後の姿が描かれた。
いちかは大好きなスイーツで色々な人を笑顔にするために世界を回り、過去の経験からスイーツが大好きという気持ちを表に出せずにいたひまりはスイーツ科学の道へ、あおいは家庭の事情やメンバーの脱退も乗り越えバンド活動を継続、何事にも面白みを見いだせなかったゆかりは楽しいことを見つけることに能動的になり、スイーツ留学を経て異国へ、病気の妹をもつあきらはその病気の治療法を見つけるために医者の道へ、シエルはピカリオとの過去の軋轢も乗り越え2人でスイーツ作りを続けるという姿がそれぞれ描かれた。全員が自らの「大好き」と改めて向き合い、あるいは「大好き」を見つけ、それに向かうというエンドがとても印象的だった。
最終的にそれぞれが選んだ道はバラバラではあるがその選択には間違いなくキラパティで過ごした時間が欠かせなかったはずである。長い人生で見ればほんの短い時間ではあるが、みんなの「大好き」が重なり、ともに過ごした時間があったからこそ、その先の「大好き」へ踏み出すことができたのだ。そう考えるとこの物語を追ってきた視聴者としては感慨深く思わざるを得ない。また、46話のいちか母の「今は大好きという気持ちで十分」や、49話のキラパティと自分の夢との間で葛藤するいちかに対する「大好きを諦めないで」というメッセージもまた素敵だ。なにをするにも始まりにあるのは「大好き」という気持ちだし、その気持ちはそうそう諦めるべきものではない、そんなメッセージが『プリアラ』にはある。もちろん現実世界は「大好き」だけでうまくいくほど簡単にはできていないだろうが、それでも「大好き」に向き合うこと、誰かと「大好き」が重なることの尊さを感じさせてくれる『プリアラ』はとても素敵な作品だと声を大にして言いたい。なんたって、「”大好き”がいちばんのマストアイテム」なのだから。

『仮面ライダー平成ジェネレーションズFOREVER』 「俺たちはここにいる」虚構が現実に語るもの

本日公開の『仮面ライダー平成ジェネレーションズFOREVER』、私も最寄りの映画館にて朝イチで鑑賞してきました。前情報が異様に少ないなか、予告やら公式からのサプライズがある宣言やらで期待と不安が膨らみまくった中での鑑賞でした。結論から言うと、この作品、傑作です。公開初日の朝イチで鑑賞して本当によかった…
以下、ネタバレ含む感想です。

 

 

 

 

 

 

 

仮面ライダーという虚構

本作の予告では「仮面ライダーはテレビの中の絵空事」というセリフが飛び出しファンを驚かせた。仮面ライダーは虚構の存在であるというメタフィクション的な視点から物語が展開するのである。この「仮面ライダーの虚構性」が本作の大きなテーマとして存在している。
仮面ライダーに会いたい」とイマジン・フータロスに望んだ仮面ライダー好きの青年・アタルが戦兎とソウゴに「仮面ライダーは現実の存在じゃない」と告げる。この「現実の存在じゃない」に対して戦兎が出したアンサーは「俺たちはここにいる」だった。これは他でもない桐生戦兎が出したアンサーとしてこの上なく秀逸なのだ。『仮面ライダービルド』の物語の中で、戦兎はエボルトの策略によりヒーローになることを仕組まれていた。仕組まれたヒーローとしての自分のアイデンティティに思い悩みながらも、万丈をはじめとする仲間たちとともに桐生戦兎という人格を創り上げた。そんな戦兎だからこそ虚構の産物であったとしても「ここにいる」と自分の存在を肯定できた。そしてこの言葉は、アタルのように仮面ライダーが虚構であることを認めたうえで楽しんでいる我々に向けたメッセージでもある。たとえ虚構であっても「仮面ライダーはここにいる」という作品からの宣言なのだ。
一方、もう1人のキーパーソンであるシンゴは、仮面ライダーの虚構性を受け入れているアタルに対して虚構がどうとか小難しいことは考えず、素直な目で仮面ライダーを楽しむ少年である。彼は『仮面ライダークウガ』の放送を楽しみに待ち、物語のラストではアナザークウガを撃破し並び立つ平成ライダーたちを見て瞳を輝かせる。瞳を輝かせながら仮面ライダーの活躍を見る姿は小さな頃、テレビの前で仮面ライダーの活躍に胸を躍らせていた自分の姿に重なる。小さかったあの頃、仮面ライダーは憧れのヒーローであり、間違いなく私の心の中にはっきりと存在していた。きっと今の少年たちにとってもそうなのだろう。本作は『平成仮面ライダー』が繋いできた憧れをスクリーンを通して感じさせてくれる、メモリアル作品にふさわしい作品だったといえる。

 

メモリアルなファンサービスとサプライズ

また、本作はファンサービスが盛りだくさんなのだ。まず、『クウガ』・『電王』で用いられたテロップの再現、地球の本棚(ウォズがいきなり検索を始めたのには少々驚いたが)やデンライナーの当時の劇伴使用、ファイズ・カブト・ドライブの高速バトルのような見てみたかったライダー同士の技の共演などなどファンをニヤニヤさせる演出が襲い掛かってくる。特にライダー同士の技の共演と言うのは前2作の『平ジェネ』にはなく(2作とも各ライダーが別々の場所で戦っていた)、本作の満足度をあげてくれた。さらに、アギト・龍騎・ディケイド・ゴーストはオリジナルキャストによる新録のボイスがあてられ、その他のライダーたちも過去音声が使われており、テレビの前で観ていたライダーたちがそのまま帰ってきてくれたようでたまらなくなる。『平成ライダー』を追いかけてきた人間にとってこんなに嬉しいことはない。
そして、映画公開まで隠され続けた本作のビッグサプライズとして佐藤健による野上良太郎再演がある。佐藤健の顔が映った瞬間劇場内から「うおお」とか「うわあ」とかいろんな声が聞こえてきた。顔を見るや否や泣き出す人までいたくらいである。そして良太郎が「記憶にある限り存在する」というようなことを言うのである。(ここはいきなり佐藤健が出てきたせいで脳が追いついていなかったのでセリフが曖昧)覚えている限り、仮面ライダーはそこにいるのだ。戦兎のセリフ同様本作のテーマが表れた名シーンである。このときモモタロスが良太郎に向けて言った「俺たちもお前のこと忘れるかよ、良太郎」というセリフもまた感慨深い。もちろん良太郎のセリフに対する直接の返しでもあるのだが、これは佐藤健の再演を待ち望んでいたファンの気持ちの代弁とも取れる。『電王』はシリーズ屈指の人気作で放送終了後も映画が作られたり、重要な役回りを担ったりすることがあった。しかし、佐藤健の出演は『さらば電王』以来叶っていなかったのである。「いつか佐藤健の良太郎をもう一度見たい…」と思っていたファンは少なくないだろう。私もそんなファンの1人であった。そして本作でそれはついに叶う。ずっと待っていたファンの思いもモモタロスの「忘れるかよ」に含まれているような気がするのだ。ともあれこんなビッグサプライズを用意してくれた制作陣には感謝しかない。

 

虚構が現実に語るもの

本作は虚構と現実をテーマに描かれた作品である。「仮面ライダー」は確かに虚構の産物だが、それから得られた感動も胸を熱くしたことも笑ったことも泣いたこともすべて現実だった、そして私たちが覚えている限りそこに仮面ライダーは存在する。そんなメッセージをふんだんなファンサービスに乗せて届ける、正に全平成ライダーファンのための作品である。平成ライダーに出会えたことに感謝。